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佐野日本大学中学校長 小林 正弘

校長室だより

校長室だより
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2010/03/24

「ちょっとモーニング」(三六)

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 三月二十日(土)晴天。九時から修業式。今年度の修業式は、既に卒業している三年生も参加して、例年に比べて変則であった。これは引き続いて行われる中学校閉校式に、三年生も出席のためなのである。三学年そろい踏(ぶ)みの修業式は、こちらとしてはむしろ気持ちが入って、好都合。それに三年生は形の上で卒業はしたが、学籍はまだ中学校にあるわけで、しかも不思議なことに卒業の翌日から、従来の制服姿で登校してくる三年生の多いことに、実は目を見張っていたところであった。
 さて、中学校の閉校式は、二十二年のその歴史にふさわしい感動の幕引きになったのである。感動の山は「生徒代表挨拶」「校旗旗納式」の流れの中で、参加者のほとんどの皆さんの心に揺さぶりを掛けた。三年生の前生徒会長T君が、一語一語噛みしめるように、歴史を終える母校に惜別の思いを語る言葉は、すべての参加者の胸にしみた。そして多くの生徒と先生方の汗と涙とそれから幾多の思いのしみこんだ校旗が、関係者の手にゆだねられ、静かにその任を解かれたのである。
 そして最後の校歌絶唱。声を詰まらせ、かすれる者多数。それでも全員力の限り歌い納める。ありがとうございます。たぶん声にならない声で互いにこう声掛け合ったはずである。
 今改めて、これまで本校中学校を支え、ご愛顧いただいた関係各位に、心から感謝と御礼の意を尽くさせていただきます。
 さて、この「ちょっとモーニング」もこの辺で一応「閉口式」といたします。勿論新年度は、佐野日大学園中等教育学校の看板を背負って、装い新たに出直しいたします。三十六回に渡って、拙文へのお付き合いありがとうございました。来年度もどうぞよろしくお願いいたします。
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2010/03/15

「ちょっとモーニング」(三五)

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 三月十一日。冬型の気圧配置で晴天。午後一時二十分から新卒業生の修了式開式。
  生徒達の笑顔、緊張して引き締まった表情、涙、涙、涙。どの表情もすばらしく生きています。このように心を存分に働かして、いかなる困難にも負けず、未知に向かって、果敢に挑戦していって欲しいと心底思ったところです。
 さて、 式典での拙(つたな)いメッセージに、私の想いを精一杯伝えようと試みました。式典の雰囲気を伝える一助に、そのメッセージの一部を、次に掲げます。
 春のいそぎという言葉があります。例えば春の気配を受けて、土筆(つくし)が枯れ草の間に顔をのぞかせ、桜が開花に備えて蕾をふくらませる。そんな春の到来に備え、生あるものが、命の全開を内に秘めた状態。これが春のいそぎ(準備)なのです。   
 そしてここに集う本校の新卒業生百十一名は、すべての皆さんが丁度この春のいそぎのまっただ中にあるわけです。皆さんが内に秘めた力は、まだ誰も読み解(と)くことができません。勿論成長途上の皆さん自身にも、その力は未知のものであるはずです。今はひたすら胸を張って、未来を凝視して、力の限り進むしかないのです。
 「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる」と詩人高村光太郎が、謳(うた)ったのは、今の皆さんの状態です。
 皆さんの前にあるのは、まさに未知の荒野です。それぞれの皆さんが、それぞれのやり方で、その道を切り拓(ひら)かねばならない。これを挑戦と言います。この挑戦を継続する力を「生きる力」と呼ぶわけです。そしてこの「生きる力」の原動力としては、若さというエネルギーに及ぶものは、ないと思います。
 あの孔子翁が言われました。「後生畏(おそ)るべし」と。「後生」とは皆さんのような若者の力(エネルギー)を指すわけです。その力は計り知れないもので、「畏るべし」というのは、その未知の力を畏敬し、敬う価値があるものだと言っておられるのです。
 ところが、孔子翁は同じ論語の子罕(しかん)篇のなかで、「苗にして秀(ひい)でざるものあり、秀でて実(みの)らざるものあり」(せっかく苗を植えても穂の出ないものがある。穂が出ても実をつけないものがある)とも言っておられます。これは、あれだけ敬意を払われた若さという力であるが、これを無駄に使い、消耗させてしまう若者は、やはり残念ながら存在するものだという孔子翁の嘆きと取ってよいのでしょう。
 私は改めて言います。皆さんの若さという力は、そしてそれを支える皆さんの命は、何物にも代え難い宝なのだと。この宝は、先ず皆さん自身のために、そしてさらに皆さんを生かしてくれているご家族や、もっと広げれば、我々人間同士が、支え合って成り立っている社会のために、ぜひ活用して欲しいのです。
 そのために、皆さんは「志」を持たなくてはならない。皆さんの夢が、いつか不動の信念となって、何ものもおそれず、その実現に立ち向かうことのできる「志」をです。
 日本大学の創設者である学祖・山田顕義先生は、その師吉田松陰先生から「立志」の心得を示された五言の漢詩を贈られました。「志」は、他人(ひと)まねであってはならないと諭(さと)された「志を立つるは特異を尚(とおと)ぶ」という一句から始まって、安逸に身を委ね、実践を怠ることで、中味のない人間にならないように戒(いまし)められた親身な言葉で、師は弟子を励まされたのでした。
 この松下村塾における、吉田松陰先生の教えには、実は教育の原点が示されていたのです。それを三つの言葉で示せば、「自主創造」、「文武両道」、「師弟同行」の精神と要約できます。そしてこれが当然本校の校訓として、皆さんの学びを、これまでの三年間、支えてきたのです。
 ところで、日頃本校では、皆さんに知、徳、体のバランスのとれた学習の実現を目ざそうと言っております。その中で、私は、特に「徳」すなわち心を確立すること、今日の話では、志を持つということが、すべての学びの礎(いしずえ)であり、皆さんの未来づくりの大本(おおもと)であると確信しております。
 かって我が国には「物心一如(ぶっしんいちにょ)」という言葉が生きていました。これは「物」にまで心があると、「物」を大切に扱う心を言います。この心は勿論他者(ひと)を大切に思う心に通ずるわけです。だから他者の知恵をも大切に思い、互いに知恵を出し合って、難局をも乗り越えようとしたわけです。知識は心が伴ってこそ、生きた知恵になるのです。受験のためにだけ使い果たされる知識が、本物でないことは、賢明な皆さんには、自明のことです。自分を生かし、他者をも生かす。そのために皆さんは、はじめて渾身の力で学ぶはずです。
 新卒業生の皆さん、皆さんは、私たちが未来に求める可能性そのものです。どうぞどんな困難にも屈しない決意と、未知に向かって果敢に挑戦する勇気と、なによりも他者(ひと)に信頼を得る誠実さとで、皆さんが常に新しい時代の創造者であることを心から願っております。
 以上、このメッセージという型(かたち)の中に、私は心を込めて、次代を担う若者達を送ったのでした。春まだ浅い午後でしたが、日差しはいつのまにか、柔らかな春の気配を漂わせておりました。
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2010/03/09

「ちょっとモーニング」(三四)

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 旧友のK氏から茶封筒入りの郵便物が届いた。ここのところ彼(か)の御大(おんたい)には、ご無沙汰で、封筒の中味についても全く当てがないまま開封すると、白いワイシャツの図柄を表紙にあしらって、全体が、ベージュ色の小冊子が現われた。「白いワイシャツー望郷の想いを短歌にー」と表題があって、頁を繰(く)ってみると、これはK氏の、既に故人となられた御母君の御歌集で、編者がK氏であることが知れた。改めてよく目を通すと、K氏の添え書きのほかに、他の御兄弟やお孫さん、更には姪御(めいご)さん等も、この敬愛する身内の歌人への、様々な思いを寄せられて、独特の家族愛がこの歌集の味わいになっていることに気付かされるのである。
 平成四年の夏に亡くなられた御母君への思いが、今になって彷彿として、その遺稿のメモの和歌(うた)に、さらにふさわしい自前の写真を添え、この歌集を編(あ)んだK氏の心が、いつか自分の心に重なってきて、しばらく熱いものを私も噛みしめたのだった。
 返礼の葉書をしたためながら、K氏の柔道家然とした厳(いかつ)い体と、そこに不似合いに添えられた坊主頭の柔和な丸顔が浮かんだ。いまは初老の域にあるこの友人は、母君と共に歩んだ人生の軌跡を今静かにここに見つめ返している。
 その思い出の一齣(こま)のある日、生徒達から畏敬(いけい)された、若い中学校教師は、清潔で、真っ白なワイシャツを、その生徒達から褒(ほめ)められたのだ。いつも真っ白に洗濯をして、アイロンをかけてくれ、教師はいつも白いワイシャツで、授業に臨めと言ってくれた母親に、その喜びをと感謝を、この息子はいち早く伝えたのである。
 
「ワイシャツの白きを子等にほめられし教師の吾子我をねぎらう」
 
 息子の喜びは、たちまち母のものとなって、この歌に結実した。
 それからどれくらいの年月が経過したろう。既に退職して職場を離れ、それからでさえ幾ばくかの年月を積んだ今、あの喜びをくれた生徒達のことが、不思議にK氏の心をよぎったのである。人が今を生きるということは、これまでたどった時を踏まえ、未来に思いをはせて、生きるということである。時とつながり、人とつながり、そういったいろいろな場面とつながる中で、今という瞬時を生きるということである。
 だからK氏は、今というこの時を、誰よりも豊かに生き、倦(う)まず未来に向かうために、御母君の残された歌と共に、白いワイシャツを褒めてくれた生徒達を、その心に、よみがえらせたのであろう。
 それにしても、K氏や私が、母親の手で洗濯され、アイロンで仕上げられた白いワイシャツを手渡された時代は、今すっかり影を潜めてしまった。私たちは今は形を変えて、この白いワイシャツに代わる贈り物を、次の時代の子供達に、しっかりと用意せねばならぬだろう。K氏の思いも、実はそこにあるように思う。
 私たち現代の大人は、今責任転嫁で逃れることの出来ない、未曾有の窮地に陥っている。例えば、未来を支える若者達に、その安定した生活さえ、準備することが出来ない体たらくなのである。そんな時、このK氏の贈り物は、私たちに肩の力を抜くことを、心を尽くすことで抜け出られる未来のあることを、可能性として示してくれているようだ。
 今母校の国立大学で、その柔道部の指導に当たっているというK氏。いつもゆったり構えながら、不動の信念に眼光を光らせていた姿が、今懐かしく思い起こされる。この親愛なる友人に、ささやかな絵はがきながら、心込めて感謝のメッセイジを送ろうと思う。
通学路に咲く梅の花(平成22年3月8日撮影)
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2010/03/03

「ちょっとモーニング」(三三)

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  霙(みぞれ)の夜が明けると嘘のような陽光が、春の気配を降り注いで、実に驚かされます。
 この季節は、三寒四温のリズムで、自然の装いも、梅の衣から、桜のそれへとあわただしく移って行くんです。執務室の窓を開けると、樹木の香に、湿った土の香が入り交じって、絶妙のハーモニーを醸しているんですね。「うあー、ここは春の匂いが一杯ですね」とU先生の、それこそ春の賛歌。U先生には、いつもこの執務室のドアの鍵を早々に開けていただいて、それから飲み頃のコーヒーを朝風のようにさわやかな足取りで、運んできてくださる。
 その先生のごく最近までの朝の挨拶は、「体の芯まで凍えそうな寒さですね」とか「今日の寒さは、本当につらいんですね」とか、ちょつと愚痴めいたものだった。それが一気に解消されたんですから、不思議なものです。本当に季節の変化は、それくらい我々の感性を揺り動かします。やはり我々は自然と一体で生きている。いや、むしろ生かされていると言ってよいのでしょう。
  ところで、U先生の感嘆した「春の匂い」は、早春の雰囲気を伝えるのに、絶妙な表現だと思います。「匂い」というのは、主に嗅覚に重きを置いた「香り」と比べると、本来、対象全体からにじみ出てくる雰囲気そのものを指す言葉なんですね。桜の花のほのかににじみ出てくる輝きとか、人の身にまとったにじみ出る気品とか、紅葉をまとった山容のにじみ出てくる季節感とか、「にじみ出る」にポイントのあるそんな「匂い」の語感が、自然と発せられた言葉に、うまくマッチしています。
 こんな季節の絶妙な変化を伝える言葉って、その語感が大いにものを言うんですね。
 本校では「言葉の学習」を学びの項目の第一に掲げておりますが、勿論この「日本語の語感を身につける」も、「国際語としての英語を身につける」と並んで、その重要な構成要素になります。
 例えば、百人一首を古典の導入にうまく活用したりして、より言葉への関心を高めるメニューも、なかなかのものだと感心しいるんです。なんと言っても古典学習は、これからの言葉の学習の一つの決め手になると思いますから。それから生きた現代語学習。現代語に弱い現代人なんてパラドックスは、洒落にもならないですものね。
 実は、国語科中心に取り組んでいる「社説ノート」作りは、もう十年越しになるんだそうです。これは、「現代語に弱い現代人」への危機感が、既に十年前に本校にはあった証(あかし)だと思います。長年これを担当されてきたOS先生に、その実践例を見せていただきました。
 社説に表れた意味不詳語やあるいは重要語等を解読したり、関心を持った表現、不審を持った表現を取り上げ、内容を検討したり、あるいは又、文章全体への感想を述べたり、時には保護者の感想をいただいたり、多様な社説へのチャレンジの軌跡に、このノートを作っていく者の、言葉を錬磨する過程が、そこにありありと読みとれます。
 こんな実績を生かしながら、さらに言葉の学習内容を深めるために、今度全国的NIE活動に参加することになりました。
 この活動は、新聞を学校の学習活動に活用するもので、かなり以前から学校教育に導入されていたんです。しかも一部の教科や一部の新聞への偏向を避けるために、全国的組織のNIEに参加することで、他校との交流なども図りながら、多様な種類の新聞を活用して、幅広い教科を通じての、内容豊かな言葉の学習が、進められるはずです。
  勿論言葉の学習は、すべての学びの根っこにあります。それどころか、言葉は、その表現者の心の窓になるんですね。だから言葉を換えて言うと、小生のこんな拙(つたな)い表現行為も、ささやかな自画像のスケッチといえるものかも知れません。 

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2010/02/23

「ちょつとモーニング」(三二)

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 映画との出会いは、小二の時に見たディズニーの「バンビ」あたりから、記憶が鮮明になってきます。この昭和二十年代末から三十年代にかけては、映画産業が最後の栄華を謳歌していた時代でした。どの映画館も、休日などは超満員、すし詰めの観客の中に潜り込んで、洋画、邦画の区別なくスクリーンを楽しんだものでした。そのころ市内には少なくとも五館が通常開館していて、学校帰りに映画館の入り口のスチール写真に子供達が群がって、中味を想像したりする様をよく見かけました。
 中村錦之助(後の萬屋錦之助)や東千代之助、高千穂ひずる、千原しのぶといった面々の活躍した「笛吹童子」や「紅孔雀」は勿論ですが、歌う映画俳優の走りの高田浩吉、鶴田浩二、それから美空ひばりの髷物(まげもの)にも結構娯楽の時間を割いたりしたものでした。
 とても信じがたいことですが、この頃の映画館は放映中の音声を館外に向かって盛んに流していたんです。今なら騒音防止条例は無論ですが、その前に近隣住民のクレームで疾(と)うに廃業に追い込まれるところでしょうね。 それがその頃はむしろ近隣の住民には、これが一種の娯楽だった。ラジオドラマでも楽しむようにこれに耳を傾けて、仕事に精出す人も結構いたと思います。子供達も見たい映画の掛かっているときには、近所の駄菓子屋に集まって、もんじゃ焼きなどで舌鼓を打ちながら、ちやっかりと音で映画を盗み聞き。こんなのんびりした時代があったんですね。
 この時代は映画は家族の娯楽の色彩が強くて、よく家族そろって映画館に出かけたものです。そんな時代の風潮に大きな変革をもたらしたのは、石原裕次郎の日活だった。裕次郎の兄の慎太郎が、小説「太陽の季節」でセンセイシュナルなデビューを果たして、芥川賞を獲得したのは昭和三十一年のこと。
 その映画化で端役だった裕次郎が、同じ慎太郎の小説「狂った果実」の映画化で、兄弟連携の妙を発揮して、主役を勝ち取ったのは、よく知られた話になっています。
 このあたりから純文学の世界も大きな変動期を迎えたわけですが、映画の観客の層にも大きな変革があった。太陽族の出現は、映画館にも影響して、日活系の映画館の前には、休日ともなれば、若い男女カップルの列が出来たのを、中学に入り立ての私なども、仰天して眺めた覚えがあります。
 そしてこれが、また在学していた中学校の風紀粛正(ふうきしゅくせい)強化に繋(つな)がった。世間では、慎太郎の髪型にまねた慎太郎カットの若者が、派手なアロハシャツにサングラスという出で立ちで闊歩(かっぽ)するなんて、決して珍しくなくなったわけです。それまでの我が国では、特に我が地方では、若者だってそんな目に付く派手な格好をした者は、皆無だったと思います。
 ところで、学校は、実際社会の動向に、常に敏感に反応しなくてはならない。それまでだって、校内での服装や髪型などは勿論ですが、校外の外出の際にも、中学生らしい格好が求められた。ところが事態はとんでもない方向に動きだしました。破天荒のベクトルの発生は、映画好きの我が身にまで及んだわけです。映画館への出入りは、自粛。どうしてもの場合は、必ず親子同伴(勿論兄弟、姉妹同伴はだめです)というお達し。これには、個人的にもまたまた仰天しました。
 その内、映画館で補導された他校の中学生の話などが漏れ聞こえてきて、風紀粛正の波は、市内全域の学校に波及していることが想像されました。
  平和な家庭の憩いの場に、いきなり暴漢が暴れ込んできたような、そんな理不尽さ。それが少なくとも当時の映画好きの子供の、単純な印象だったように思います。
  そんなある日、突然親愛なる我が父親から、「おい、今度の日曜日映画に行かないか」と誘いの相談を持ちかけられて、それこそ私は三度(みたび)仰天したわけです。
  我が父親は、勿論事の推移をすべて了知しておりました。その上で「最近のお前さんを見ていると、なぜ学校が、子供だけの映画館出入りを禁じたか。その目で確認しなけりゃ納得出来ないって様子だよ。案ずるより生むがやすし。論より証拠って言うじゃないか。父さんが付いていけば、違反ではないはずだ。今裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』というのが上映中だ…」こんな調子で、次の日曜日には、よい席を取ろうと、母親の猛烈な反対を押し切って、早々と入場券販売所前に並ぶ羽目になったのです。
 そこで実見聞したものは、確かに若い男女のカップルのなんと猥雑(わいざつ)に見えたことか。実に我々親子ずれの肩身の狭いこと、この上もありません。それに友達や先生に見られたら、と変に落ち着かないのです。館内が満員になるころには、さらに男女の若者達の嬌笑(きょうしょう)やら叫声(きょうせい)。家族で楽しんでいたあの映画館は、どこに行ったのか。担任のA先生のしかめ面なども脳裏を横切って、映画の中味といえば、決して悪くはなかったのですが、ちょつと失望の体で、映画館を後にしたのでした。
 さて、こんな映画館への禁足期間も、いつか熱病が過ぎ去ったかのように消えて行きました。そしていつの間にか、従前のお出入り自由の状態に戻って、一時の大狂乱に終止符が打たれたのでした。そう、それはあたかも潮が引くように、映画産業の栄光に、静かに幕が下りる前兆でもあったわけです。
 それにしても、子供の安全を守るとなると、途端に向(む)きになった中学校のことや、それなりに子供を見守っていた我が親愛なる父親のことも、今懐かしく思え返されます。あの時に、地方にまで突然押し寄せた若者達の熱病に対抗して、映画館禁足を熱弁した担任のA先生も、亡くなられて以来どれくらいになるのでしょうか、既にその年月すら、数えることも出来ません。我が父の十七回忌を終えた今、とりとめもなくあの頃のことを思い返す今日この頃です。
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2010/02/15

「ちょっとモーニング」(三一)

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 今年は各地から豪雪のたよりが聞かれますね。「雪はもう沢山だ」とは、雪国で生活をする人の本音かも知れません。同じ雪国でも、スキー場を持つリゾート観光地とは、思いを異にするところなのでしょうか。
 雪に対する思いといえば、子供の頃は、雪国や周囲の風物を清浄なものに一変させる雪に、あこがれを持っていました。
 それにその頃などは、今と違ってこの地方にもよく雪が降った。それも小さな子供の膝が埋もれるくらい降ったものです。
 幼少の私の、最初に現れる雪の思い出は、祖父母と妹と縁側に座布団を四つ並べて敷いて、雪釣りをしたことかと思います。道具は細い竹竿の先に、凧糸を垂らして、その先に割り箸を一片が五センチほどの長さに切って、これを十文字に糸の先に結びつけたもの。祖父がこれを一つ一つ丁寧に仕上げてくれました。白い糸に絵の具でそれぞれ着色して、「青は正弘のものです。大切に使いなさい」などともったいぶって渡してくれたのでした。
  糸を投げ入れると、降りたての雪は、十文字の割り箸にからみついて来る。これをつり上げて、私と妹は、ブリキの子供用のバケツに入れる。祖父母は金盥(かなたらい)に入れて、二手に分かれてそのつり上げた量を競(きそ)うわけです。
 私の祖父は、大変厳格な老人だった。親戚の者が我が家にやってきた時、自転車をそのまま庭の内に乗り込むことが許されない。門前で一度降りて、これを転がして入らなければ、祖父から叱られるとぼやいておりました。
 こんな祖父が相好(そうごう)を崩して、雪釣りに興ずる姿は、今思い出しても、懐かしく心に染(しみ)てくるものがあります。手作りでものを作ったり、これを使って遊んだりすることは、よほど人の心を和ますものののようですね。
 最近二年生の担任のk先生から、「ちょつと来て見てください」と誘いが掛かった。行ってみると、二階、三階の廊下を展示場に、生徒達があれこれ工夫して作り上げた掲示物が掲げられている。これは東京お台場での、エコプロダクツの環境学習の成果で、それが色とりどりの作品に姿を変えているわけなのです。勿論、各クラスそれぞれのグループの、手作りの報告書の体なのです。 互いに言葉を交わしながら、文字を書き込んだり、彩色したり、仕上げるまでにやり取りした楽しい会話が、まだ紙面に踊っているようにおもわれました。
 「学習は単に頭に入れ込むだけではつまらない。これを消化して、自分の理解を通して表現するのは、実に楽しいものだ」とこの生徒達の掲示物は、我々に自己主張しているようです。
 さて、昨日は久々にみぞれが雪に変わって、家々の屋根や樹木がうっすらと雪化粧しましたね。ちょっと物足りないわけですが、雪国の苦労を思えば、贅沢は言えません。勿論雪だるまや、雪合戦は、夢の又夢。況や雪釣りをやですが。
 それでも早朝から、子供達のいつにも増したはしゃぎ声が、聞こえてきます。子供達が冬の遊びを忘れるはずはありません。きっとこの雪が、子供達の遊び心を刺激して、じっとさせてくれないのだと思います。そのうち、何処かで遊びの種を探し出して、絶えることない創造へと夢を育んでいるに違いないと、そんな想像を、しばらく炬燵(こたつ)の中で楽しんでいます。
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2010/02/08

「ちょっとモーニング」(三十)

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 二月三日は節分、暦の上では寒があけて、立春ということになりますね。
 それにしても、今年の節分は、近隣の家々から、豆まきの声が聞かれなかった。自分の耳が老化して弱ったのか、事際豆まき自体が省略されているのか、それにしても静かすぎる節分は、ちょつと寂しい気がします。
  一昔前には、町内の古老がこぞって鎮守の八幡様で、豆まきを競い合う声が、宵闇の中に響き合ったものでした。
  今では屋内でも、豆まきが影を潜めたのか。こう鬼の存在に無関心では、平成の鬼たちは、我々庶民の隠れたぼやきなどものともせずに、大手を振って、闊歩(かっぽ)すること請け合いです。
 豆撒(ま)きが大好きで、私の後ろを豆を撒(ま)きながら付いて回った娘達も、都会に出て以来、昨今この行事にご無沙汰になって、父親の豆を撒(ま)く勢いも、ここのところややしめりがちなのである。
 「我家も餅つきが人任せになったたし、どんど焼きなんか、いつの間にかなくなってしまったみたいだね。そういえば、焚き火なんかも条例で禁止されているんだっけ。最近では凧も揚げないし、コマなんか回しているの、見たことないね」などと私がぼやくと、「もうお年なんだから、時の流れに従ったら。今年はお雛様も飾りませんからね。毎年今年が、最後だ。今年でやめだといいながら、いつまでも続けるんですから。肝心の子供達が見ないんだから、今年はほんとにやめますからね」実にやぶ蛇なのである。雛飾りはなかなか厄介で、妻の手を借りなければ埒(らち)が明かない。もうそろそろ吉(よ)い日を見計らってと、密かにもくろんでいたのだが、これでは、雛祭りも当分見送りである。
 私の世代などは、季節の行事で、月々の時が刻まれる幼年時代を送って来ている。そしてこれを身に付いた因習,陋習(ろうしゅう)と言って、容易には切り捨てられないわけだ。そこには、季節の変化や時代の流れに応じて、家族や地域社会全体が、互いに健康に配慮し、隣人(ひと)を気遣って生きてきた足跡がある。形骸化した行事なら、今更持ち上げるつもりはないのだが、そこに宿っていた人の心は、矢張り貴重なものとして、引き継いで行かねばならないと思っている。
 「古人の跡を求めず、古人の求めたところを求めよ。」(昔の優れた歌人達のたどった痕跡を求めるのでなく、その求めた心を求めなさい)という芭蕉翁の言葉が、ふと心をよぎるのである。瞑目(めいもく)して、聞くべし。
  さて、台所で桝(ます)に残った炒(い)り豆を摘(つま)もうとしていると、妻の声。「お父さん、それは子供達の分。帰ってきたら、福茶を飲ませるんだから、残して置いてくださいね」 この分なら、あるいは今年もお雛様は、日の目を見るかもしれません。
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2010/02/03

「ちょっとモーニング」(二九)

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  過日の立志式には、該当二年生の保護者の皆さんに沢山ご参列いただき、改めて感謝を申し上げます。それぞれの皆さんのお子さんに向けられる熱い思いが、いやが上にも式場の熱気を高められたように思いました。
 ところで「志」をたてるということは、極めて個々の内面に深く関わる行為ですから、その成熟度に合わせて、一人一人が別個の「志」を育てるというのが本筋だと思います。
 日本大学を創設された学祖・山田顕義先生が、あの松下村塾の塾生として、吉田松陰先生の教えを受けておられた少年時、松陰先生から立志の勧めを五言の詩をもってって示された。その詩中に、「志を立つるは特異を尚(とおと)ぶ」という一句があったわけです。「志をたてるに当たって、他人(ひと)まねではだめである。ほかの誰でもない、自分独自の志を持たなければならない」ほどの意味合いであろうと思われます。そして、これがなかなか困難で、安易に実現できないものだから、松陰先生はあえて、将来ある 顕義少年に念押しされた。
 実は、十四、五の少年少女の頃は、聞き分けも出来て、あるいは一つの信頼さえ生まれれば、素直に他人(ひと)の教えごとが、その心に染みいる契機を持っているのかも知れません。だから、立志の年齢などは、自ずからこの辺に、落ち着いてくるものと思われます。
  それにしても、あの孔子翁が「吾十有五にして学に志し」たというのは、ここで初めて勉強を始めたというわけではないのかと思います。「論語」という書物によれば、孔子少年はどうも貧しく、不遇の少年時代を過ごしたらしい。これは、今の時代にも言えることですが、必ずしも経済的に恵まれない子供にとって、身を立てる術(すべ)は学問だと言うことになる。元手という点では、工夫次第で貧しくとも、何とかなる。今まで実行してきた勉強を元手に頑張ればよい。大切なのは、やる気力次第と言うことでしょうか。なるほど現代でも、財産、家柄、身分などから自由であるのは、学問といえるかも知れません。
 いずれにせよ、孔子少年は十五歳の時に、自分独自の学問をうち立てる決心をしたものと見えます。孔子翁の時代、男子は二十歳になると成人と認められたらしい。これは今と変わらないんですね。ただ孔子翁のその青年期は、翁の成長記録に現れない。その後論語では「三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る」と、立志の時から自らの天命を悟るまでの間を、孔子翁自身で、簡潔にまとめて見せてくれたことになっています。
 この表現に従えば、孔子翁は、三十才になって、漸(ようや)く独自の学問体系を身につけたという自信を得たのであろうかと思います。ここではじめて自立と言うことが言えるのでしょうね。
 ところで、立志式に話が戻りますが、これは個々人の立志というより、すべての生徒の皆さんに立志の勧めをする儀式なんですね。
  現代の若者達が、多くの大人達の期待を担いながら、その志をどのように自分の血や肉にしていくのか、これからが見守りたいところです。
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2010/01/27

「ちょっとモーニング」(二八)

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  本学園短期大学のあるあたりは、市内でも最も変貌を遂げた地域です。かって市営の高萩球場があった所までが、私たちが子供の時に出入りできる境界線だった。その先は平地林と畑、竹藪などが鬱(うっ)そうとしていて、地理案内に疎(うと)い子供などが、安易に踏み込める場所ではなかった。そういう意味では、当の短期大学が、あの地域開拓に先鞭(せんべん)をつけた功労者といってよいのでしょう。
 ところでこの高萩の南地区に例のアウトレットがエリアを拡大して行くにつれ、イオンのショッピングモールが、あたかもアメリカ都市部のそれのような偉容を短大隣接地に示して、我々を驚かしたものです。時代が変われば人が代わり、住む環境も自ずと変化していてくものですね。
 それにしても遠い昔、あのイオン沿いに流れている三杉川が氾濫して、あのあたりがまるで一面の泥沼と化した風景が、夢のように思い出され、目に浮かぶことがあります。三毳山の山容を映してさざ波をたてているその光景は、確かに沼と呼ぶのにふさわしかった。 元来この地域は、水はけのよくない湿地で水が出れば、すぐ沼の様相を呈したのです。この地域から藤岡の渡良瀬川に、三杉川が流れ出るまでには、越名(こいな)沼、おやた沼などの沼地が広がっていて、水郷地帯とでも呼ぶにふさわしかった。
  こんな郷土の歴史に興味を持って、中学生の頃に、友人と史跡調査のまねごとなどしたことがありました。手始めは自宅に地続きの八幡神社。ここにはおしどり塚という塚があるんです。これは鎌倉時代に作られた「沙石集」という説話集に取り上げられた、おしどりの悲話をもとに、この塚が作られたと地元の古老に伺いました。しかもその書物によると、この地は、かってアソ沼という広大な沼地であったというんです。このアソ(阿蘇)沼が訛(なま)って、浅沼になった(勿論異説もあります)。私の住居は浅沼町ですから、なるほどとすっかり納得したものです。それにしても三毳山麓に山容を映して、どこまでも広がる沼の風景は、あの三杉川出水時の風景に重なって、私の興味を一層そそったものだったんです。
 そのほか古墳時代の米山古墳、大桝塚古墳、八幡山古墳などの古墳めぐり、奈良時代の万葉東歌跡散策など、教室を離れた学習活動に目覚める、これはいい切っ掛けになりました。
  ところで本校中学校では、こんど「学習底力講座(仮称)」の開設を予定しています。これは週に一度、例えば職員室前に次のような課題が提示されます。「地平線ギリギリに見える雲までの距離を求めなさい」とか「学校のプールに一杯に水を満たしたら、何リットルになりますか」とか、これは、勿論教科書や問題集をいくらこなしても、答えの求められない問題なのです。 挑戦者は、答えを解答用紙に記入して、エントリーBOXに投函します。その間、何を調べても、友達と相談してもかまいません。(ただし、表彰の都合もあるので、投函者は、今のところ個人でと考えています)週末には解答と正解者を発表します。          
  ここで狙(ねらい)になる学習底力というのは、要するに生きる力と言い換えていいものです。そして、生きる力って、生きる意欲のことだと思います。たった一度の人生、精一杯知恵を働かせて、楽しみながら生きる。これが学ぶ意欲の原点でしょう。
 だから、学ぶって、生きる知恵を、自分自身の手で、手探りで探すことから始まるんでしょうね。苦労は伴うけれど、この世で知りたいことの種は尽きません。

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2010/01/20

「ちょっとモーニング」(二七)

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 年明け早々、知人の訃報が相次いで、ちょつとつらい思いが重なりました。こればかりは、人の決意や意志も歯が立たない一方的通達。甘んじて受け入れるしかないむなしさを、今度ばかりは、したたかに味あわされた感じがします。
 しばらくご無沙汰していた同僚の死も、不意打ち、抜き打ち、出し抜けだった。別の同僚から電話をもらって、しばらく絶句。「若かったのにね」と訳の分からぬ言葉を、何度も繰り返してしまいました。年齢は私よりも六つ下になるのかな。本人もさぞかし無念であったろうと、胸が熱くなるのです。
 E先生は、私がかって勤めた県立学校の優れ者の教員でした。精神はおおらかで、しかも強靱な意志力を駆使して教育に当たられていた。生涯一教師ーそんなことは、無論一言も口にされたことはありませんが、そのへつらうことなく、屈することなく、毅然と教師道を進む姿には、野武士然とした潔(いさぎよ)さが、立ち現れているのでした。
 通夜の挨拶に立たれた奥様が、若者から年輩者まで、引きも切らぬ弔問客に、「夫の大きさを今日しみじみ感じました」ともらされたお言葉に、私も今更ながら感じ入ったのでした。実に先生は、小さな達人だった。世に広くその名を誇ることはなかったけれども、先生を知る人は、生徒も同僚も、友人も知人も先生を敬愛し馴れ親しんだ。
 自分をしっかり理解して、その力を十分発揮する。勿論自分を生かすために、そして周囲の人をも生かすために。あの人と共に働くと仕事まで楽しい。あの人と話したり、飲んだり、食べたりすると生きていることがすばらしいことに思えてくる。 そんな小さな生き甲斐を、その周囲に与えることの出来る存在感。そんな存在感のある人を私は小さな達人と呼んでいます。先生はまさにそんな人だったんです。多くのことを学ばさせていただいた、この小さな達人に、改めて感謝と敬意を捧げます。併(あわ)せて心からご冥福を祈って合掌。
 さてこんな存在感のある人づくりを、知・徳・体修得の吾が学舎で、私たちは進めていきたいと思っています。
 吾が中等教育学校は、近い未来、それぞれがそれぞれの生き方に自信を持って、しっかりと大地を踏みしめながら、未来を切り開く若者達の巣立ちの拠点となるはずです。
 私の同僚の小さな達人は、無念にもその生半ばにして、その意志が潰(つい)えましたが、やがてこの学舎に育った、吾が小さな達人達は、いつか未来を支える大きな達人に育つことだってあるはずです。
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